海外・タイで仕事や生活をしていると情報収集が重要です。
タイにも縁があった日本人たちの情報取材の姿勢についてみてみましょう。
個人的に驚かされたエピソードについてピンポイントでご紹介したいと思います。今回はこちらの人についてです。
永瀬一哉:学校の先生がタイで見つけた秘密基地
1956年生まれ。インドシナ難民支援のNPOに従事。
「クメール・ルージュの跡を追う」などを執筆。ポルポトといえばカンボジアで大虐殺をした独裁者ですが、タイとは秘密のつながりがありました。
タイは皆様ご存じの通り、アメリカとの関係が深い西側陣営であり、国王が尊敬され、軍が何度もクーデターで政権を取った保守的な体制の国です。極端な共産主義のポルポトとは水と油のはずですが、どういう関係だったのでしょうか。
1975年、カンボジアでポルポト率いるクメール・ルージュが政権を握りますが、強制労働と処刑で大混乱になります。責任転嫁のため79年ベトナムを攻撃。反撃され政権崩壊します。反乱を起こしたヘンサムリンがベトナムの後ろ盾で新政権を樹立します。
ポルポトはジャングルに潜伏してタイとの国境地帯を支配しシアヌークの旧王党派と組んで、新政府軍とベトナムに抵抗を続けました。
毛沢東やミッテランの伝記を執筆した元BBC特派員のフィリップ・ショートなど多くの研究者が、当時、ポルポトが潜伏した秘密司令部「第131局」はカンボジア南部のコッコン州にあり、その後ベトナム軍の攻勢で一時的にタイに逃れた、としてきました。
ところが永瀬氏の調査により、「第131局」があった本当の場所が明らかになりました。
普通の高校教師がカンボジアへ
永瀬氏はプロの記者や戦場カメラマンではありません。神奈川の高校の先生でした。
社会科の授業で生徒に生の声を聞かせるため、近隣に住んでいたインドシナ難民の人々にインタビューを重ねるうち、カンボジア出身の青年の進学を助け、お礼に故郷のある人物を紹介されます。
それがコン・デュオン氏という、ポルポト派がジャングルから発信していたプロパガンダ放送のアナウンサーだった人物でした。
カンボジアを訪問した永瀬氏は、インタビューをします。
数々の謎のポルポト派内部の話を聞いたのですが、コン・デュオン氏は秘密司令部「第131局」は実は最初からタイの国内・トラート市の北東の山中にあった、と証言し、永瀬氏は衝撃を受けます。これは定説を覆すことですし、タイがポルポトを最初から支援していたことにもなるからです。しかし、彼の発言や記憶は正しいのか?
矛盾点もあるのです。例えば「第131局」が作られた時期について、他の元スタッフらの証言と食い違いもありました。
証言の裏取りでジャングルへ
このため、永瀬氏がひとつひとつ、裏取り作業を始めます。
この地道な裏取り作業に驚かされます。まず、十回以上カンボジアを訪問して多くの人にインタビューをするということにはじまり、実際に、「第131局」の跡地を探しに行きます。
方向がわからなくなるジャングルの樹海のなか、蛭(ヒル)に血を吸われ、大量の地雷があるため歩くのに極度の緊張を強いられる困難な獣道を通って到着。現地の様子が事前のコン・デュオン氏の証言と一致するため、「第131局」の場所の特定に成功します。
「第131局」が作られた時期についても、色々な証言を検証していきます。
元スタッフの証言は人により差異があり、フィリップ・ショートの記録でも異なっていました。20年以上前のことであり、ジャングルで社会から隔絶され秘密も徹底されていたため、スタッフ達の記憶があいまいになっていたのです。覚えていない人もいました。
この矛盾する証言をどうやって永瀬氏は分析していったのでしょうか。
スタッフの証言の裏取り方法
ある元スタッフは1983年の乾季に131局が設営されたと証言。それをなぜそう言えるのかを深掘りして聞いていくと、
「(第131局を設置した直後)結婚した」「結婚式の時、タロイモのお菓子を作ったから分かります。あれは乾季の芋です。」という証言を引き出します。
他の人にも「(開設準備に行った時は雨季だった。なぜなら)雨が降っていました。蛭が一杯いた時期です」
「(生まれたばかりの赤ちゃんを抱いていたが)すたすたと歩いて行った(だから雨季の泥道ではない)」といった具体的なことを聞き出していきます。
誘導尋問にならないように、でも丁寧に証言者に発言の根拠を尋ねていきます。
これによって、証言者が当時の記憶を個人的な体験に紐付けて思い出していきました。
この膨大で緻密な作業に永瀬氏は取り組んだのです。
繰り返しますが、永瀬氏はTV局や新聞社などのバックをもたない、普通の高校教師です。
取材が丁寧なだけでなく歴史への真摯な姿勢でコン・デュオン氏らは心を開いていきました。
ポルポトの仕掛けた罠とタイの本音
「131局」の場所がどうして、フィリップ・ショートら他の研究者には“カンボジアのコッコン”にあると思われてきたかの謎についてです。「131局」の元スタッフらが証言したからなのですが、それはポルポトが最初にスタッフを集めた際に、ジャングルの中をわざと遠回りさせて連れてくるなどして混乱させたうえで、「ここはコッコンだ」と伝えたことに始まることを永瀬氏はつきとめます。
つまり、ポルポトは腹心のスタッフすら信じずウソをつき、その彼らを通じて世界中が数十年後に至るまで騙され続けたということだったのです。
この結果わかったことは、タイ当局が、当初からクメール・ルージュのために国境を越えたタイ国内に拠点を作ることを認め、物資も提供していたということでした。
当時の世界もベトナム戦争で屈辱を受けたアメリカ、西側諸国、日本、そして中国もベトナムが擁立した新政府ではなくクメール・ルージュ側を支持していました。
しかし、タイは特にベトナムを脅威とみていて、緩衝地帯としてイデオロギーが違ってもポルポト派を利用していたのです。
また、これは以前から有名ですがクメール・ルージュが支配していた国境の町パイリンはルビーと木材の産地でした。これをタイが購入するというWin-Winの関係でもあったわけです。この関係は90年代の国連のUNTACによるカンボジア総選挙まで続き、1996年に孤立したクメール・ルージュが分裂、98年にポルポトが死亡し幕を閉じてしまいます。
2000年代のタクシン政権時代にタイがカンボジアの指導者フンセン首相に急接近し、現在でもカンボジアの野党勢力がタイに逃げてくると拘束したり追放する理由も、この流れを知っていると想像がつきます。
タイが伝統的に周辺国との関係をどう考え、どう生き残ろうとしてきたか、そうしたこともわかりとても興味深いです。ぜひ読んでみてください。
<参考文献>
「クメール・ルージュの跡を追う」同時代社
「気が付けば国境、ポルポト、秘密基地」アドバンテージサーバー
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784886837257
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784901927925