海外・タイで仕事や生活をしていると情報収集が重要です。
タイにも縁があった伝説的な日本人ジャーナリストたちの情報取材の姿勢についてみてみましょう。有名すぎる人たちなので、個人的に驚かされたエピソードについてピンポイントでご紹介したいと思います。今回はこちらの二人についてです。
沢田教一:どんな状況でも自分は全くぶれない
“サムライ”と呼ばれた男・沢田教一とは?
1936年生まれ。写真店でバイトしながらカメラの勉強をしてUPI通信社に入社します。
バンコク取材の帰り、当時始まりつつあったベトナム戦争を知りたくなります。1965年、休暇中に自費でベトナムへ行き取材開始。その取材が認められサイゴン支局に正式異動します。
米軍の爆撃を受けて河のなかを逃げる親子の写真がピューリッツアー賞を受賞します。他の賞も受賞した際に会社の人が沢田を探しますが、ジャングルのなかで活動中で見つからず、表彰式に出られなかったそうです。
1970年、カンボジアでの内戦取材をしていた際、移動中に銃撃され34歳の若さで死去しています。
どんな状況でも自分は全くぶれない
UPI通信社は最大手の会社ではありませんでした。結局ロイターなどに勝てずに90年代に倒産しています。沢田が賞を受賞したあと、世界中のメディアが2倍の給料を出すなど好条件で引き抜きにかかりますが、沢田は応じませんでした。このため「サムライ・フォトグラファー」と呼ばれたそうです。
有名なこの写真を撮影した直後、米兵が銃を向けるのに構わず沢田は河に降りて親子を助け、泣き叫ぶ右端の当時2歳の子供の涙をハンカチで拭いてくれたと、この家族は証言しています。また、賞金の一部をこの家族にプレゼントするなどその後も交流を続け、沢田が死んだことが伝わると、村中で惜しまれたそうです。
過酷な状況でも、取材対象者への姿勢や働く場所について自分の信念を曲げないという気骨の人だったのです。
https://asiandocs.co.jp/contents/10
近藤紘一:現場を観ることを貫く決断力
ベトナムとタイ女性の共通点・近藤紘一とは?
1940年生まれ。サンケイ新聞特派員として1971年、南ベトナムのサイゴンに赴任します。
サイゴンで子持ちのベトナム女性ナウさんと再婚します。ベトナム戦争の取材を続け「サイゴンから来た妻と娘」などのノンフィクションを発表します。1978年から83年までタイ特派員に。その生活を描く「バンコクの妻と娘」は80年代のバンコクの様子が興味深いです。現在のチットロム駅近くのマンションに住んでいたようで(BTSはない時代です)、2000年頃までは近藤を知る管理人がいたそうです。
近藤の著作は、戦争や民族性への深い洞察だけでなく人々の生き生きとした様子を描く点が楽しいです。
タイ女性とベトナム女性の違いについても語っており、浮気した夫のチ○ポを切る事件がよくあるところが共通している、と言っています。
東京で奥さんがウサギを飼ってかわいがり始め、自然のなかで育った彼女が外国の都会暮らしで寂しいのかと思っていたらある夜、食卓にそのウサギが(料理として)出てきた話など、おもしろいです。
作家活動に専念しようとした矢先、1985年に胃がんで45歳で亡くなっています。
現場を観ることを貫く決断力
近藤がベトナムで取材を続けていた1975年4月、北ベトナムの攻勢が強まり、サイゴンからは政府高官やアメリカの関係者たちが国外逃亡を始めていました。数日前に首都が陥落した隣国カンボジアでは乗り込んできたポルポト軍に前政府関係者は皆殺しにあっています。近藤は悩みますが、通訳をしていた妻のナウさんを最後の飛行機で日本へ逃がし、自分は残ることを決断します。
やがてサイゴンに共産軍の戦車が突入してきて南ベトナム政府は崩壊します。北ベトナムの攻勢は急だったため、日本の他の新聞社など世界中のジャーナリストがサイゴン入りしようとしたときにはすでに国境と空港が封鎖されており、現地に残った近藤らだけが歴史的瞬間に立ち会うことになります。
近藤の伝えた「一カ月前まではっきりと存在し、機能していた一つの国が、いま地図から姿を消そうとしている」(「サイゴンから来た妻と娘」)
この情報の臨場感は、協力者を守りつつ自分は現場を離れなかった決断力あってのものだと感じます。
参考文献:「サイゴンのいちばん長い日」「サイゴンから来た妻と娘」「バンコクの妻と娘」近藤紘一・文春文庫
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-08-9850119845
いかがでしたでしょうか。海外・タイで仕事をする我々としては、情報収集のプロである先人のエピソードは興味深いです。