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伝説の日本人の情報交渉術・借金+タイのダム+デヴィ夫人=???

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伝説の日本人の情報交渉術・借金+タイのダム+デヴィ夫人=???

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海外・タイで仕事や生活をしていると情報収集が重要です。タイに関係する日本人たちの情報・交渉術についてみてみましょう。今回は個人ではなく、あるプロジェクトについてです。

シリントンダム建設プロジェクト

タイの東北地方・ウボンラチャタニ県にシリントンダムという古いダムがあります。このダムは1971年に完成した日本の円借款プロジェクトの第1号です。そう聞くと“へー昔から日本はタイに援助してきたのか”とだけ感じますが、調べてみると、日本とタイの間の熾烈な情報戦と駆け引きのなかでできたものだったのです。タイが”親日国”になった理由やデヴィ夫人も出てくる、その不思議な経緯をみてみましょう。

日本がタイにした借金とは

発端は、第二次世界大戦にさかのぼります。
1941年、日本軍は、当時イギリス領だったマレーシアやシンガポールを攻略するため、中立国だったタイに侵入します。戦闘状態になりますがタイは日本と組んだ方が得と判断し抵抗をやめ、日本と同盟を結びます。
日本軍は、軍費の借り入れをタイに依頼、後で利子をつけて返済するとして、“つけ”でタイから物資調達します。しかし日本は敗戦しタイから撤退、当時の額で15億円が未払いで残ってしまいました。

タイで人気の日本兵とタイ女性の悲恋物語「クーカム」

戦後日本は、東南アジア諸国への戦争賠償を開始します。
ビルマ(ミャンマー)720億円
フィリピン1980億円
インドネシア 803億880万円
ベトナム 140億4000万円
ラオスとカンボジアは請求権を放棄しています。(金額は当時のレート)

1950年代半ばに各国との間の交渉で金額と支払方法が決定し、順次支払いが開始されていきました。
1955年、この情報を得ていたタイ政府は日本に対して、戦時中の賠償と利息分を加算した貸金の返済を求めます。その額はなんと1300億円(当時)の請求でした。他国の金額についての情報を参考にしたと思われます。
高度成長前の日本にとってはさすがに高いので交渉の結果、大幅に減らして54億円の支払いと96億円の借款供与をするということで両国は合意しました。

ところが、この協定にタイ国内で不満が起こりました。今では考えられないですが、田中角栄首相が訪タイした際には反日デモが起こるなどしていたそうで、“親日国タイ”も70年代頃までは日本へのイメージが良い人ばかりではなかったのです。
このため、タイ政府は「96億円は借款ではなく、無償提供と解釈したのだが?」と話を変え始めたのです。この“手のひら返し”に日本はどう対応したのでしょうか?

損して得を取る交渉

日本としては、賠償金とはいえ相手の言い値は大変、かといって、同意しなければ相手国の政府の立場がなくなり関係が悪化する…

1950年代のバンコク・フアランポン駅前

日本はタイの政治状況の情報収集を行いました。当時のタイはピブーンソンクラーム首相ら軍人出身の政権が続いており、まだタイ米生産くらいしか大きい産業がなかったため、民衆の支持を得るための国土開発の資金が必要だ、とみられていました。

そこで編み出したのが、「96億円を無償提供し借款も加えて開発を援助するかわりに、日本企業をからませること」という取引だったと考えられます。これにより1962年に96億円は無償供与とする「日タイ特別円協定」が改定締結されました。
これは協定に明記されたわけではありません。しかし実際に、この96億円の資金をもとにシリントンダム建設が計画され、1961年の実地検査、そしてプロジェクトが決定したのちの1967年にダムの設計を手掛けたのは、日本企業である電源開発株式会社だったのです。

デヴィ夫人がセレブになったわけ

この交渉のやり方は、すでに他国で行っていたものでした。
インドネシアへの賠償額は803億880万円でしたが、これをキャッシュで払うのではなく、ゼネコンなどの日系企業がインドネシアで受注した仕事の代金を日本政府が全額支払う、という条件で行われたのです。
これによりインドネシア側は「無料」で開発ができ、日本政府側は企業の海外進出を後押しでき、日本企業は受注がとりやすく代金の取りはぐれもない、という「三方よし」の見事なスキームでした。

この交渉の過程で赤坂の高級クラブで接待を受けたスカルノ大統領が、そこにいたホステスを気に入って妻としたのが、あのデヴィ夫人、というのもおもしろいエピソードです。

タイではシリントンダムの建設後、これをモデルケースとしてODA(低金利での貸金あるいは無償援助)が行われるようになり、タイは日本の資金で様々な開発を進めていきます。有名なプロジェクトでは、2006年開業のスワンナプーム空港建設やパープルラインなどの鉄道設置をはじめとして、他にも多くの橋や道路、学校開設が行われてきました。

スワンナプーム空港にある記念プレート

これに伴い70年代には日本企業が多く日本へ進出し、文化の交流も深まったことにより対日感情が急速に向上していき、現在の状況に至りました。

多額の賠償金をめぐる交渉のなかで、お互いに相手の情報を上手にとって、両方のためになるビジネスを作り出して、両国関係を深めたという先人の工夫は、興味深いものです。

【参考資料】
タイ発電公社(EGAT)公式サイト/「シリントンダムの29年」
日本外務省「日本のODAプロジェクトタイ有償資金協力案件概要」
日本の賠償と円借款 文芸社
沈黙のファイル―「瀬島 龍三」とは何だったのか 新潮文庫

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