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タイのような屋台文化が牛タンを産み出した?牛タンの誕生理由

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タイのような屋台文化が牛タンを産み出した?牛タンの誕生理由

エカマイのホルモン焼・カラオケスナック「アイーン」です。
第Ⅰ部18時~21時はホルモン焼き店として、第Ⅱ部21時以降は通常のスナックとして営業しています。
当店のホルモン焼きセットのなかには、牛タンがあります。皆さまは牛タンという料理が誕生した理由をご存知でしょうか?タイといえば路上に屋台が並んでいる国ですが、じつはこうした屋台文化が、牛タンの誕生に大きく関係しているのです。

昔の日本はタイに似た屋台文化だった

牛タンは韓国式焼肉にはありません。だから今でも韓国へ行っても牛タンのある焼肉屋は多くないそうです。牛タンの発祥の地は、日本の仙台です。

第二次大戦の敗北直後、日本はとても貧しくて街も空襲で破壊されていたので、商売をする人は路上に屋台を出していました。闇市と呼ばれた路上には、うどんを売る店、タバコや果物を売る店、そして戦争未亡人のホステスがお酒を出し路上で呑むという路上スナックまで並びました。特に人気だったのは焼き鳥を売る店でした。用意するのは七輪と炭と網だけなので設備投資が少なくてすみ、簡単だからです。
当店の近く、プラカノンとオンヌットの間にある巨大市場に行くと路上に大量の野菜や食べ物の屋台が並んでいますがあのような感じですね。戦後の日本は今のタイ・バンコクの屋台文化と同じような状況だったのです。ところが、簡単にできるということは、ビジネスとして考えると参入がしやすいかわりに、他の誰かにすぐ真似されてしまうということでもあります。実際、しばらくすると焼き鳥屋が全国で乱立して市場は飽和状態になりました。
近年のタイも、たとえば台湾タピオカティーの店などが儲かったという噂が広まると事前検証や準備をしないですぐ皆が飛びつき真似をして、品質の低い模倣品を出したり消費者に飽きられたりしてすぐに市場を自ら壊してしまうところがありますが、戦後の日本も同じような状況だったわけです。

牛タンを考え付いたきっかけは?

仙台で焼き鳥を出していた「太助」という店の料理人の佐野啓四郎さんという人は、その状況に悩み、友人の洋食店のシェフに相談しました。
洋食でタンシチューというものがありますが、これにヒントを得て、珍しい牛タンを焼いて出せばよいのでは?というアイディアを思いつきます。しかし、本来の牛タンというのは厚い皮に覆われていてそのままではコクが出てこない味わいなので、洋食で使う場合は3日間も煮込む必要がある、扱いがめんどうな素材なのです。牛タンをそのまま焼き鳥のように焼いても、とても食べられるものではなかったそうです。佐野さんは焼き鳥をただ焼いている素人ではなく元は和食料理人であったこともあり、調理方法を毎日研究します。また、当時の日本では精肉問屋にも牛タンはなかったため佐野さん自ら、山形や福島の屠畜場を周り、使い道がないため廃棄される牛タンを交渉して集めるルートを構築します。
そして、苦労の研究ののち、牛タンを薄い切り身にして塩味をつけ寝かせて熟成させるという下ごしらえ方法を編み出したのです。
(参考資料:仙台牛タウン「仙台牛タンの歴史」など)

戦後闇市とタイ娘の共通点

現在の焼肉店で当たり前のようにみかける牛タンは、この佐野さんが開発したスタイルが元祖なのです。
ひとりの料理人の工夫が、居酒屋でさえも出すようなスタンダードな料理にまで大きくなったというのはすごいですね。

今晩は、「アイーン」のホルモン焼きタイムにご来店頂き、牛タンを召しあがって、コクのある味と職人の苦労の歴史を感じるように噛みしめてみませんか?
そしてそのあとは、路上屋台文化で育ったタイの女の子たちの“戦後闇市風”のラフで活気ある接客をお楽しみいただければと思います。

プラカノンの夜散歩・デートスポット・ビアガーデンから南欧料理まで

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